市川直樹というスタイル

1999年から労務を主にしたコンサルティング業務を行い、2004年、株式会社GSKコミュニケーションズを設立。不動産賃貸業、管理・ソフトウェア開発のほか、飲食業や人材派遣、自動車販売業などさまざまな業種のコンサルティングに従事。さらに2006年4月より「大志の会」「有志の集い」「市川直樹塾」を主宰し、中小企業経営者に向けて講演会やシンポジウムなどを積極的に開催。これまで300社以上の中小企業経営者のコンサルティングに取り組んでいる。 2011年にはしいの木子どもクリニックを開業、クリニックと調剤薬局の経営コンサルティングを手がけ、開業以来5年間で約9万人の患者の集患に成功している。

市川直樹の要素

市川直樹の要素
市川直樹の父

市川直樹の

自分の子供のことを褒めるなんて事はしない。かといって、否定する訳ではない。ただ、世の中の害にだけは、ならない様にと思っている。社会に貢献出来るような人になってくれればいいと願っている。だから、何をどこまでやって欲しいとか、ここまで出来たからすごいとか、そういう事は思わない。
あれは、直樹がほんの2、3歳の頃、もう自転車に乗れて、三百田公園で乗りまわしていた。その器用さというか、覚えの良さに驚いた。
中学の時の仮装大会で、ウルトラマンか何かをやって、優勝していた。今はあんまり表に出さないかもしれないが、そういう、ひょうきんなところがある。人を喜ばせるのが、小さい頃から好きだった。
沖縄で一人で暮らす経験は、自分を見つめ直すいい経験になったのではないか。考える時間があるから。まあ、どんな過ごし方をしたかは分 からないが、そこで成長したと思う。
人として生まれて何が出来るか?
我を通すところには、何もない。
どれだけ社会に貢献をするかで人生は決まる。
その事を忘れずにやっていってもらいたい。

市川直樹の母

市川直樹の

直樹はとにかく、手のかからない子でした。私は理容師をしていたので、かまってあげられず、私の父親が見てくれていたのですが、それこそ赤ちゃんのころから、オムツを汚さない子でした。保育園に入ってからも、友達と同じように遊んでいるのですが、不思議と服を汚さず、次の日そのまま着せてもよさそうなほどでした。
デパートや遊園地などに出かけると、なぜかいつも関係ない人から声をかけられて、お菓子とか飴をもらえる子でした。
「あいうえお」の積み木を与えると、興味を持ったらもう離さない。いつまでたっても寝ないという風で、結局一晩で全部覚えてしまうということがありました。
小学生のころ、私が仕事から帰ってくると、自分のおやつと私のためにビールを用意して持ってきた。「つかれたでしょう。一休みしてお話をしようよ」といってくれるような子でした。中学に入って、私の知らないところで悪さもしていたようですが、私には心配させないようにという気づかいでしょう。家ではずっと良い子でした。
今まであまり心配をかける子ではなかったので、実は今が一番心配です。私には会社のことが分からないので。体には気をつけてほしいですね。

市川直樹の祖母

市川直樹の祖母

一緒に暮らしていたわけではないのですが、良く遊びにきてくれていました。
歌の好きな子で、沢田研二の歌や、フィンガーフアイプの歌をよく歌っていました。
長島温泉に遊びに行ったとき、大宴会場で食事をしているとき、飛び入りでステージに立って「勝手にしやがれ」を歌ったのを覚えています。私にとって一番の孫です。

市川直樹の子供

市川直樹の子供

●ゆうし君
「今日は学校どうだった?」とか、「どっか行きたいところないか?」とか、自分が疲れていても、こちらの気持ちに合わせて、言ってきてくれるのが嬉しい。
お父さんは、個人的に人を責めたりしない。家族の中で何か問題があった時も連帯責任。
それから、ルールについてはすごく厳しい。6時に帰るという時、1分でも遅れたら怒られる。あと、お父さんから言われた事を実際にやって見ると、やって良かったなと思える事が多い。例えば、「口調がきついから、最後に『ね』を付けなさい。」とか。日常で家族の中で使って行くと、外でも使える様になって、相手の反応が変わってくる。

●しょうこちゃん
出張から帰って来たときとか、絶対に疲れているのに、お父さんはその事を絶対に表に出しませんどんなときも私の話を聞いてくれます。自分は人に冷たくしてしまったりするので、その事を怒られたとき、「最後は、家族を大切に思ってくれさえすればいいんだよ。」と言ってくれたのが、心に残っています。
あと、お父さんに昔言われた事が、後になって分かるという事が多いなと思います。小学生の時に、「自分の悪いところを認めなさい。」と言われて、意味が分からなかったけど、今は、分かる気がします。自分が良いと思っても、周りの人がどう思っているのかを考えるという事なのかなと思います。

●こうじ君
お父さん好きだから、帰りが遅くても起きて待ってる。早く帰ってこないかなあ。会いたいなあ。
なかなか遊べないから、よく電話しちゃう。

市川直樹の妹

市川直樹の

小学生の頃、クリスマスのときにもお年玉が残っている兄。その自分のお金で私に「リカちゃん人形」を買ってもらった。とてもうれしかった。
整理整頓をきっちりやる兄。部屋もいつもきれいにしている。いっしょに住んでいるときは、たまに「もうすこしきれいにしろよ」と言われた。
とても食事のマナーなどは厳しい。
言葉使いはとてもきびしい。心無い言葉をとても嫌う。
話はいつも聞いてくれる。
小さい頃はカラオケでマイクの奪い合いをして歌を歌った。

市川直樹の先輩A

市川直樹の先輩

最初の出会いはライブハウス。自分とミホの親子デュオの演奏を気に入ってもらえて、一日の間に3回も4回も顔を出してくれた。その時期は、市川社長にとって、人に騙されたりしていたドン底の時代。自分自身も会社を潰してドン底の時代で、それでも必死でライブを続けていた。きっとそんな姿に共感してもらえたんだと思う。精神的な辛さを支え合って過ごしていた。お互いが精神安定剤のような存在だったと思う。ストレスとライブの疲れで、夜中に一緒にいた時に自分が倒れそうになった事がある。その時、市川社長はとっくに閉まっている薬屋に飛んで行き、叩き起こして薬を買ってきてくれた。自分はその時、何でこの人は、自分のためにここまでしてくれるんだろうと思った。感動した。そんな事もあって、市川社長は「ケンさんここで、音楽をゆっくりやったら?」と言って、社長の自宅の隣に事務所を借りてくれた。本当に、自分にとっての命の恩人。必ず困った時に「光」を与えてくれる。とことん人のためにやる人だと感じている。

市川直樹の先輩B

市川直樹の先輩

市川君との最初の出会いは、自分が30歳の時。彼が20歳でした。それからは親友というよりは、もはや家族って感じ。
市川君がサラリーマンだった頃、「話をしたい」と私の家で、夜遅くまで語りあいました。彼は当時、仕事も深夜に及んでいて、経済的にも苦しい状態でした。あるとき、自分に2000円だして、「今日はこれだけしか、ありません。これで遊べるところに連れて行ってください」といわれたこともあります。大須でぶらぶらしたり、ラーメンを食べたりするのが、お互いの唯一の楽しみでした。
そんな状況の時、「僕は雇用を生み出すために会社を興したい」と彼は言いました。
正直、「市川君はどうしちゃったの?」と思いました。でもそうした思いを熱く語る姿をみて、その志の高さに「なんて美しい思いを持った人なんだ」とても感動しました。
それからしばらくたって彼は会社を興しました。会社を興す前に本人が熱く語っていた夢よりも現実が上回っています。でも彼はいつも「周りのおかげ」と言っています。
これだけの牽引力をもっている人を自分は知りません。
市川君が社長になって、社員が増え、彼の抱えている責任は大きくなっていますが、責任感は以前から変わっておらず、また彼の話していることは一貫して変わっていません。
周りがそれをだんだん理解できるように成って来た。時代がやっと追いついて来たという事だと思います。

市川直樹の友人A

市川直樹の友人

直樹との一番最初の出会いは、高校時代。お互いの友人同士がいざこざを起こし、それぞれの仲裁に入ったのが彼と自分だった。第一印象は「目に力のあるヤツだ」と思った。クラス対抗リレーの時、クラス選抜メンバーの中に自分も彼も選ばれた。自分は選ばれたメンバーの中では、自信がなくて周りは足の速い人ばかりなので緊張していると、「大丈夫。お前は速いから」とずっと励ましてくれた。結局リレーは優勝し、クラスも総合優勝できた。
修学旅行の余興をクラスで考えたとき、直樹を中心にして劇の台本から作って、発表した。とにかく物事の中心にいる。
劇は結局「2位」になってクラスみんなでくやしくて泣いた。担任まで泣いていた。彼が中心にいると皆を巻き込んでいく。自分もそれに巻き込まれたうちの一人。

市川直樹の友人B

市川直樹の友人

小学生からの幼馴染だが、親しくなったのは、中学3年の時。生徒会で直樹が生徒会長、自分が書記になって、活動するようになってから。彼は岡崎市で交換留学にえらばれたのだが、選ばれるのを躊躇する人も多い中、直樹はすごく楽しんでいたのが印象的だった。
直樹が推薦で高校が決まり、自分も同じ高校を受験し、一緒に陸上部に入った。練習はあまりやった印象は無く、サッカー部にサッカーの試合をして勝ったことをよく覚えている。高校卒業を前にして、直樹が、「親のすねをかじりたくない。離れた土地に行って、経営を学ぶ」と言い出し、沖縄の専門学校に行ったのには、びっくりした。当時から自立心が強かった。自分が浪人して大学を目指しているころ、沖縄にいる直樹のことが頭をよぎって、模試の時、志望校の欄に「琉球大学医学部」と冗談で書いたことがあった。たまたまそのときの結果が志望者の中で2位になり、そのことを直樹に言うと、その結果表を沖縄に持っていって、「これ、自分の友達なんだ。」と自慢してくれた。それがとてもうれしかった。
直樹が岡崎に帰ってきて、自分も大学院を出てからは、それこそ毎日のように直樹と遊んでいある時期があった。そんな時にも、彼の正義感というか、信念を感じる出来事があった。東岡崎で、周りの迷惑を省みず、嫌がらせでクラクションを鳴らすタクシーがいた。直樹は急に運転手に向かって「会社の看板を背負っているという自「覚があるのか」と注意をした。運転手がその意味を理解したかどうかは分からないが、直樹らしいなと感じた。こうしたところは、昔からずっと変わらないところだなと思う。

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